Share

もっと甘えて 09

last update Last Updated: 2025-04-11 04:55:36

暖かなギャラリーに盛大な拍手で迎えられながら、演奏を終えた春花はほうっと胸を撫で下ろした。春花はワクワクするような懐かしいような、不思議な気分だった。観客のいる中でピアノを弾くのは何年振りだろうか。高校生の時の、発表会前のドキドキワクワクした気持ちが呼び起こされたかのようだった。

静と目が合うと、ニコッと微笑まれて安堵する。

「すごくよかった」

「ほんと? 次は静の番だよ」

小さくハイタッチをして、交代をした。

静の演奏が始まると再びしんと静まり返る。

綺麗で繊細なピアノの音色が耳に心地よく響いて、春花はふわふわと海の中を漂っている気持ちになった。静の実力は知っているはずなのに、いつ聴いても心に染み渡って美しい。

感動すら覚えるその演奏はやはり圧巻だった。

「春花」

「はい」

「トロイメライ」

手招きされて、恐縮しつつも静の隣に座る。

「いくよ」

すうっという呼吸音で鍵盤を弾く。一体感の生まれる二人の演奏は観客たちの心を掴み、その音色はしっかりと刻み込まれたのだった。

「やっぱプロは違うわ~!」

「でも山名さんも凄かった~!」

静の生の演奏を聴いた同僚たちは口々に感想を言い合う。それは静を褒めるものだけでなく、春花の存在感さえも確かなものとして彼女の評価を上げた。

「店長、いろいろとありがとうございました」

「こちらこそ、いい演奏を聴かせてもらったわ。ありがとう山名さん。桐谷さん、本当にタダでいいのよね?」

「こちらが無理言って演奏させてもらったんですから、お金なんて取りませんよ。CDまた平積みしていただけると嬉しいかな」

「もちろん、大々的に宣伝しますよ! 今日でファンになった子たちも多いみたいだしね」

葉月は、未だ演奏の余韻に浸りながら興奮気味の社員たちに目配せをする。

そんな同僚たちの姿を見て春花は嬉しさでいっぱいになり、静は感謝の気持ちでいっぱいになった。

楽しく心穏やかな時間は春花と静に活力を与えた。
Continue to read this book for free
Scan code to download App
Locked Chapter

Related chapters

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 01

    いつも通り静が春花を迎えに行ったある日のこと。 店の前で春花を迎え、すぐ目の前の駐車場へ向かおうと歩を進めた時だった。「おい、春花。いいご身分だな」ひどく冷たいドスの聞いた声が横から耳に突き刺さり、二人はそちらに視線を向ける。「……高志」そこには髪を乱暴に掻き乱した高志が、春花と静を睨み付けるように立っていた。「なるほどな。男がいたからそっちに逃げたって訳だ」「違っ……」「春花に何の用だ。ストーカー被害として警察に付き出してもいい」静が春花をかばうように前に出る。そんな静を見て、高志はますます苛立ったように声を張り上げた。「人のもの奪っておきながら何言ってんだ」「春花はものじゃない。さあ、警察を呼ぼうか」その瞬間、高志はその場に崩れ落ち、先ほどの勇ましい態度が急変したように弱々しい声を出す。「春花、俺は春花がいないとダメなんだ。なあ春花、やり直そう。アパートも解約しないでくれよ。俺、お前がいないと死んじゃうよ」懇願するような態度は春花の気持ちをグラグラと揺らがせる。春花だってもう高志からの呪縛からは逃れているため簡単に心を持っていかれることはないのだが、わずかながらの罪悪感が動揺として現れた。そんな春花の心をピシャリと断ち切るように、静が凛とした声で春花の背中を押す。「聞かなくていいよ、春花。さあ、車に乗って」「待てって、春花!」高志の騒ぐ声に、道行く人が腫れ物でも触るかのように遠巻きに見たり避けたりしていた。やばい奴には関わりたくない、誰もがそう思い怪訝な表情をする中、春花だけは去り際に高志をチラリと見た。「え……?」ギラリと光る鋭利で気味の悪い輝きが目に飛び込んだ瞬間、春花は無我夢中で静を押し倒した。

    Last Updated : 2025-04-12
  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 02

    「っ!」「ぐっ!」脇腹に鋭い痛みが走り、春花は体制を崩しながら倒れまいと必死に手をつく。ぐきっという鈍い感覚に顔を歪めるが、脇腹の痛みの方が強く意識を保とうとするだけで精一杯だ。静は春花に突き飛ばされるまま、道路にごろりと転がる。「キャー!」誰かの悲鳴と共に静が見た光景は、苦痛に顔を歪ませながら地面にうずくまる春花の姿だった。「春花!」抱き寄せようと手を添えると、ぬめりとした感触に戦慄が走る。静の手には春花の血がべっとりと付いており、一気に血の気が引いていった。「春花しっかり!」「静、ケガは?」「俺は何ともない」「……静が……怪我しなくてよかった。ピアニストは……怪我が命取りだもんね」わずかに微笑む春花に静は唇を噛み締める。「何言ってるんだ! 今救急車を!」静の呼び掛けに、春花は青白い顔をしながら小さく頷く。静の手のひらから春花の血がこぼれ落ちる。止めたくても止められない、赤い血がぼたぼたと地面を染めた。「春花! 春花、大丈夫だから」「……静が無事なら、それでいい」「よくない! 今救急車が来るからな!」ザワザワと恐怖に怯える通行人たち。 勇気ある者たちに取り押さえられながらも奇声をあげ続ける高志。 騒ぎに気付いて店を飛び出してきた葉月。 そして祈るように春花を抱きしめる静。泣きそうな静の顔が春花の視界に入る。(ああ、静に迷惑かけちゃった……)やがて救急車とパトカーの近付くサイレンの音と共に、春花の意識は混濁していった。

    Last Updated : 2025-04-13
  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 03

    春花の脇腹の傷は、血が流れた割には思ったよりも浅く、命に別状はなかった。グキッと曲がった左手首は幸い骨には異常がなく、捻挫との診断だった。だが数日の入院を余儀なくされた。ベッドに横たわる春花の左手首には仰々しく包帯が巻かれており、静は悲痛な面持ちでそっと手を添える。「痛みはある?」「薬のおかげかな、今は大丈夫」「春花、ごめん。俺が守らなきゃいけなかったのに」「ううん。静のせいじゃない。元はと言えば私が変な男にひっかかったからいけないの。そのせいで静に迷惑かけちゃって……本当にごめんなさい」「春花のせいじゃない」「いいの。静が無事だったから。私のせいで静がケガしたら、それこそ耐えられなかったよ」春花の左手に添えられた静の手の上に、春花は右手を添えた。痛々しいほどに健気な春花に静は胸が苦しくてたまらなくなる。守らなきゃいけなかった、守るべき存在だった春花に逆に守られてしまった。自分だけ無傷なのが情けなくて悔しくてたまらない。「ねえ静、刺されたのは脇腹だし捻挫したのは左手だから、利き手は普通に使えるのよ?」「ダメだ。俺がすべてやるから」運ばれてきた夕食を前にして、春花は戸惑いを隠せないでいた。静が箸を渡してくれないのだ。「ほら、口開けて」「恥ずかしいから自分で食べ……むぐっ」有無を言わさずこれでもかと過保護に取り扱われ、成すがままの入院生活となったのだった。

    Last Updated : 2025-04-14
  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 04

    春花は無事一週間で退院でき、街も人も何事もなかったかのように元通りの平穏を取り戻していた。だが春花だけは違う。隣には静がいて、店には葉月がいる。まわりの景色も何も変わらないのに、春花の心だけどこかに置き忘れてきてしまったように感じていた。仕事復帰も、葉月からゆっくりでいいと言われている。そんな優しさが余計に心苦しい。春花にはたくさんの生徒がいたのだ。今回の件で、店にも生徒たちにも迷惑をかけてしまった。物騒だからとレッスンを辞める人もいたと聞き、その責任の重さに胸が潰れそうになった。「店長、私……」差し出した封筒。 退職届と書かれた文字を見て、葉月は受け取りを拒否した。「悪いけど認められないわ。もし山名さんが責任を感じて店に迷惑をかけたと思うなら、今まで以上に働いてちょうだい。簡単に辞めるなんて言わないで。今通ってる生徒さんたちを裏切ることになるのよ。みんなあなたを待ってるんだから」「でも……」「責任を感じて辞めるっていうのだけはやめて。もし山名さんに責任があったとしても、それで辞めさせるかどうかの判断は店長である私が決める」「……はい」「まあ、それとは別で、あなたの今後の人生を考えて辞める選択をするなら、その時はきちんと受け入れるわ」葉月の言うとおり、今の春花の気持ちは迷惑をかけた責任を取ろうとしか考えていない。これからの自分のことなど考える余裕がないのだ。それほどまでに今回の事件は春花に罪悪感を植えつけていた。

    Last Updated : 2025-04-15
  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 05

    ◇久しぶりに静のコンサートが開催されるということで、春花は招待者として会場に足を運んだ。今回はピアノとバイオリン、フルートのアンサンブルだ。自宅でピアノの練習をしている静の姿を何度も見てきた春花だったが、バイオリンとフルートが加わるとどんな音色になるのだろうとワクワクする。やがて会場の照明が落とされ、奏者達が舞台に姿を現した。静は黒のタキシード姿でいつも通り存在感を放ち輝いている。恋人の立ち姿が立派だと、なんだか春花が誇らしく嬉しい気持ちになった。(やっぱり静はかっこいいな。……あっ!)思わず息を飲んだ春花の視線の先には、フルート奏者である三神メイサがワインカラーのドレスを翻し、エキゾチックな雰囲気でひときわ異彩を放っていた。(あの人、前に静と噂になった人だ……)思わず彼女を凝視してしまう。今日のコンサートがアンサンブルで、フルート奏者が三神メイサだと静から聞いていた。それに対して春花は何とも思わなかったのに、いざ彼女を目の前にすると少しばかり心が落ち着かなくなる。彼女とはなんでもないと聞いているし、静の恋人は自分で愛されているという実感もあるのに、それでも気になってしまう心の弱さに自然とため息が出てしまう。(存在感がすごいんだよね……)メイサの自信に満ち溢れた表情からは、フルートにかける情熱さえも読み取れるようだ。ピアノ、バイオリン、フルートの綺麗な旋律はあっという間に観客の心を掴んでいき、春花の雑念も消え去っていった。

    Last Updated : 2025-04-16
  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 06

    静から楽屋で待っててと言われていた春花は、演奏終了後に関係者として中に入った。静の名前が貼られた楽屋を前にノックをしようとしたとき、「ねえ」と声をかけられ振り向く。「あなた、静の彼女よね?」ワインカラーのドレスに身を包んだ三神メイサが、春花を値踏みするかのように立ちはだかった。「あの……」「あなたに話があるのよ。ちょっと来て」「えっ、あのっ!」有無を言わさず、メイサは春花を引っ張って自分の楽屋に連れ込んだ。パタンと閉められた扉はメイサの背にあって、簡単に逃げることができない。ワインカラーに負けないほどに目鼻立ちがくっきりした美人タイプのメイサは、腕組みをして春花を睨むように見下す。「あなた、静の足を引っ張らないでちょうだい」「……それはどういうことでしょうか?」「本当、能天気ね。静はこれから私と海外公演で名を馳せていくハズだったのよ。それなのに急に出てきたあなたにその夢を壊された」「海外公演?」「何? もしかして聞いてないの? 静はこれから海外でも実績を上げていく予定だったのよ。でもあなたがケガをして側にいたいから諦めるんですって」「え……」「本当に知らなかったんだ? 静はこれからもっともっと有名になる予定だったのよ。静には狭い日本より広い海外が似合ってる。海外からのオファーだってたくさんきているのよ。あなたもバカじゃないでしょう? 静を説得して。今ならまだ間に合うわ。身を引いてちょうだい」「そんな……」春花は押し黙る。メイサの話が本当かどうかわからない。静からは何も聞いていないからだ。だが静の実力なら海外からのオファーだってあるに違いないし、そもそも静のピアニストとして初の公演は海外だった。(私がいるから? 静は我慢してる?)

    Last Updated : 2025-04-17
  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 07

    三神メイサの言葉がぐるぐると巡る思考の中、春花の頭の中には高校生の時の静の言葉がよみがえる。『俺は世界中の人を俺のピアノで魅了させるのが夢だ』そう言った静はキラキラと輝いていた。春花はそんな静を応援したいと心から思っていたのだ。(ああ、そうだった。静の夢は世界に羽ばたくピアニストなんだった)そう思った瞬間、春花の心の中にあった何かが崩れ落ちた気がした。静とは一緒にいたい。ずっとずっと好きだったのだから。 ようやく手に入れた自分の居場所。これからも大切にしたいと思っているのに。 自分が愛されている、守られていることをひしひしと感じる幸せな今の生活。でもそれはすべて静の夢を犠牲にして成り立っているという現実。もし静が海外にいったらどうなるのだろう。 もっともっと有名になったらどうなるのだろう。平穏が変わってしまう事を考えると怖くてたまらない。静がいない生活なんて考えられない。でも……。 だからといって、自分のために夢を犠牲にするなんてことはしてほしくなかった。一緒に音大にいけなかった、ピアニストの夢をあきらめた春花にとって、今でも静の夢には全力で応援したいと心から思う。それが春花の夢でもあるからだ。(私なんかのために夢をあきらめちゃダメだよ)込み上げる涙を我慢して、春花はメイサの元を去った。

    Last Updated : 2025-04-18
  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 08

    ◇ 「春花、どうした?」リハビリがてら家でピアノを弾いていた春花だったが、曲の途中で手が止まり、すぐそばで聴いていた静が声をかける。「ううん。何でもないよ」フルフルと首を横に振るが、捻った左手首が思うように動かせず先ほどから納得のいかない演奏に気持ちが沈んでくる。「少しずつだよ、春花」察して静は春花の左手首を優しく撫でる。その心遣いが優しすぎて春花は胸が苦しくなった。いつだって静は春花を優先する。ピアノのリハビリもずっと付き合ってくれている。静だって次の公演に向けて練習をしなくてはいけないはずなのに、「俺はいいから」と身を引くのだ。そんな優しさが、かつての自分を見ているようで苦しい。そんなに気を遣わなくていいのに。 もっとわがままになってくれていいのに。「ねえ静、海外公演を断ったって本当?」「春花、その話どこから……?」「やっぱりそうなの?」「いいんだよ、それは。別にピアノなんてどこにいても弾けるだろう?」「でも夢なんでしょう? 世界中の人を魅了するのが静の夢」核心を突くような言葉に静は息を飲んだ。だがすぐに首を小さく横に振る。「俺の今の夢は春花を幸せにすることだよ」優しさが一層春花の胸を締めつける。それはそれとして静の本心なのだろうと思う。だがその言葉の裏にはやはり自分の感情を押し込めていると思わざるを得ない。静は誰よりも努力家で誰よりもピアノが好きで、もっと世界に羽ばたきたいと願っている。ずっと近くで見てきた春花だからこそ、わかるのだ。

    Last Updated : 2025-04-19

Latest chapter

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   すれ違い 07

    抱いていた恋心が数年越しの再会と共に実り、静と恋人になれたことが嬉しかった。 短い間だったけど、一緒に暮らせたことも幸せでたまらなかった。 ずっと一緒にいられたら……なんて考えるだけで未来が明るいようで心が軽くなった。だけど、静の夢を一番に応援しているのも事実。静の背中を押し海外に送り出したのは、彼に広い世界で輝いてほしかったからにほかならない。そんな春花の予想通り、静は海外で着実に実績を上げて活躍の場を広げていっている。本当に凄くて誇らしくて、涙が出そうなほど感動する。でもその一方で、自分の情けなさに胸が潰れそうになる。一生懸命やってきたピアノの先生も、左手首の捻挫から思うようなレッスンができなくなった。完治しているのに、いつまでもあの事件が頭の片隅で燻るのだ。そしてそのことで静にも店にも迷惑がかかっている。この状況に、春花の心は耐えられそうになかった。自分の存在がリセットできたらどんなにいいだろう。何もかも忘れて新しい世界に生きられたらどんなにいいだろう。そうやって考えるようになって、自分は心が病んでいるのだと気づき始めた。「それでこの先どうするの?」「ちょっとゆっくり休んで考えていこうかなって思っています」「大丈夫なの?」「大丈夫です、ちゃんと自分の将来も考えています。それでひとつお願いがあって……」葉月は春花の意思を汲み取って、今回は退職届をそのまま受け取った。ただ、上司として春花の心の闇に気づいてあげられなかったことが悔やまれ、申し訳ない気持ちになった。

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   すれ違い 06

    「私の夢はピアノの魅力を伝えること。でももうひとつ、静が世界に羽ばたいている姿を見たいんです。わがままなことを言っているとは承知しているんですが……」時折言葉を選ぶように話す春花を見て、葉月は困ったように眉を下げた。「そうね、新規の生徒さんを頑なに入れないから、まあそんなことだろうとは思っていたわ。時間をかけて身辺整理をしていたんでしょう?」「いえ、まあ、残っている生徒さんには申し訳ないのですが」「それは仕方がないわ。こんなことを言ってはなんだけど、あなたの幸せが一番大事よ。私はこの先も辞めるつもりないし、新人も育ってきてる。レッスンのことは気にしなくていいわよ。それで、桐谷さんについていくの?」「いえ、私は遠くから見守るだけで十分かなって。寂しいですけど」てっきり静と結婚、もしくは将来を見据えて春花も海外に行くのかと思っていた葉月だったので、春花の言葉にポカンとしてしまった。理解が追い付かず目をぱちくりさせる。眉を下げながら困ったように微笑む春花。葉月はハッとなって、その肩をガシッと掴んで揺さぶった。「ちょっと待って! どういうこと? 別れたの?」「いいえ、まだ。でも静には私はいないほうがいいって思っています。彼の重荷になりたくないので」「重荷って……。それはあなた、思い詰めすぎよ」「そんなことないです。ずっと考えていたので……」

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   すれ違い 05

    家に帰り一人になると、今日の葉月と記者の言葉が思い起こされて胸が潰れそうになった。明らかに静のスキャンダルを狙っているような質問に、春花は身震いして自分自身を抱きしめる。今日は葉月のおかげで引き下がったようだが、きっとまた来るに違いない。もしかしたら他の記者も来るかもしれない。そうなると、輝かしい静の活躍に自分のせいで泥を塗ることになるかもしれないという不安が渦巻いた。元カレである高志とトラブルになってしまったことで、こんなことになっている。この先、静にまた迷惑をかけてしまったらどうしよう。誰よりも静を応援し、誰よりも静を愛しているからこそ、春花は一人悩み落ち込んだ。そっと左手首を撫でる。もう完治しているはずなのになぜだかシクシクと痛む。静のことだけではない、こんな不安定な状態のままピアノを弾き続ける事にも違和感を覚えていた。「ニャア」「トロちゃん、どうしたらいいと思う?」猫のトロイメライは春花にすりすりと頭をこすりつける。「トロちゃんだけは私の側にいてね」頭を撫でてやると、トロイメライは春花の足元で寄り添うように丸まった。そして春花は決意した。翌日、春花は白い封筒を差し出す。「店長、あの……」「どうしたの?」「辞めさせていただきたいと思って。今回はちゃんと私の意思です」「山名さん……」「ずっと考えていたんです。ケガをしてから前みたいに弾けなくて、どうしたらいいんだろうって」春花は一呼吸置く。葉月は急かすことなく春花の言葉をじっと待った。

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   すれ違い 04

    「以前、店の前で人が刺される事件があったのはご存じですよね」「ええ、物騒ですよねぇ」「ピアニスト桐谷静の恋人のことは知っていますか?」「ああ、話題になっていますよね、三神メイサでしたっけ?」「三神メイサとは別に恋人がいることはご存じで?」「えっ! 二股ってことですか! やだー」「この店には桐谷静のサインがたくさんありますね。以前彼が来たらしいじゃないですか」「ええ、そうですね、以前来ていただいたんですよ」「どういうツテで?」「それは企業秘密ですよ」「桐谷静の恋人がこの店で働いているから?」「んもー、記者さんったら誘導尋問がお上手だこと。ここだけの話、実は私が大ファンなので知り合いに頼み込んでもらったんですよ。あ、これ他の店には秘密ですからね。絶対ですよ。あっ! もしかして桐谷静の二股の相手って私なのかしら? だとしたら光栄だわぁ」葉月の明るい声と記者の愛想笑いはその後しばらく続いたが、やがて埒が明かなくなったのか、記者の方が根負けて「今日はこのくらいで……」などと言って帰っていった。「あー、しつこい男だった」ため息とともに仕事に戻った葉月は、高くしていた声のトーンを落とす。「店長、すみません。私のせいで……」「社員を守るのも上の仕事よ。気にしないで。それより桐谷静が二股してるとか、その相手が私だとか、嘘言っちゃったわ。ごめんね」「いえ、いいんです。ありがとうございます」葉月の温かさが嬉しくて春花は目頭をじんわりさせた。本当に、良い職場で働いている。自分の蒔いた種なのにこんなにも守ってもらって贅沢ではないだろうか。ありがたいと同時に申し訳なさが込み上げてきて、春花は胸が押しつぶされそうになった。

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   すれ違い 03

    何もかも順調にいっていると思っていたある日のこと。「すみません」レジで作業をしていた春花は声をかけられ顔を上げた。「はい、いらっしゃいませ」「以前、店の前で人が刺される事件がありましたよね。そのことについて少しお伺いしたいのですが」「えっと……」戸惑う春花に名刺が差し出される。 ぱっと目を走らせると、有名な雑誌社の名前が印刷されていた。「桐谷静の恋人と元彼がトラブルになったことを調べています」「えっ……あの……」ドキンと心臓が嫌な音を立てる。 この記者の目的は何だろうか。ドキンドキンと大きな不安に押しつぶされそうになり、言葉を飲み込む。 春花が何も言えないでいると、様子に気づいた葉月が横からすっと割り込んだ。「お客様、そういったご用件は店長である私がお受けいたしますので、従業員に聞き込みするのはやめて頂けますか? うちも商売なので、他のお客様に迷惑になる行為はやめていただきたいんですよぉ」「ああ、これは失礼しました。では店長さんにお話を伺っても?」「ええ、どうぞ。ではこちらに」葉月はスムーズに人気のないレッスン室の方へ誘導する。ドキドキと動悸が激しくなる春花は、一度大きく深呼吸して気持ちを落ち着ける。葉月と雑誌の記者の話が気になり、こっそりと聞き耳を立てた。

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   すれ違い 02

    静は単独公演のみならず、三神メイサとのデュオでも大きな実績を上げた。国際コンクールにおいて優勝し、世界の舞台で通用する演奏家として名を馳せたのだ。静とメイサ、二人の偉業は大きく、連日ニュースが飛び交う。『静とは初めて演奏したときから運命を感じていました。これからも長い付き合いになると思います』カメラ目線で自信満々にコメントするメイサに、数々のフラッシュが飛び交う。『桐谷さんも一言コメントをお願いします』『そうですね……。このように受賞できたこと、光栄に思います』二人が微笑み合う姿は多くのメディアに取り上げられ、SNS上では「お似合いの二人」とまで囃し立てられていた。そんなものを目にしてしまった春花はドキンと心臓が変に脈打つ。静とメイサがそんな関係ではないことはわかっているし、静からもいつだって「愛している」と連絡が来る。もちろんその言葉を信じているのだが、さすがにこれだけ話題になると精神的に響くものがあった。「静、おめでとう! ニュースで見たよ!」『ありがとう。春花に一番に伝えたかったけど、メディアに先を越されたな』「それは仕方ないよ。今や日本を代表するピアニストだね」『まだまだこれからだけどね。でも一歩踏み出せたかな』「これからどんどん有名になるんだろうね。なんだか静が遠く感じられるなぁ」『俺はいつだって春花の元に飛んでいくよ』「そういう意味じゃなくて、雲の上の人ってことだよ。本当に、おめでとう。店長なんて大盛り上がりでCD平積みしてたよ」『日本に帰ったらお礼しに行かないとね。春花ごめん、今から祝賀会があるんだ。また連絡するから』「うん、わかった」『春花』「うん?」『愛してる』「私も、愛してるよ」電話越しの静はいつも通り優しく穏やかで、モヤモヤしていた春花の心もすうっと晴れていく。声を聞くだけで安心できるなんて、単純極まりない。そんな自分に春花はクスクスと笑った。

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   すれ違い 01

    静は海外へ、春花も職場復帰し、いつも通りの日常が始まった。寂しさや物足りなさは密な連絡を取ることで回避され、お互い順調なスタートを切っていた。「山名さん、ニュース見たわよ! さすが桐谷静!」「はい、ありがとうございます!」二ヶ月が過ぎた頃すぐに大成功をおさめたニュースが飛び込んできて、恋人の活躍に春花は誇らしい気持ちになった。店に静が来訪してからというもの、社員たちの桐谷静推しも増している。やはり静が海外に行くことは正しかったのだと、証明しているようだった。「そうそう、山名さん。新規の生徒さんが入りそうなんだけど、受け持ってもらえない?」「すみません、ありがたいお話ではあるんですけど……」「まだ手首に違和感があるの?」春花が無意識に押さえた左手首を見て、葉月は心配そうに尋ねる。「そう……ですね。申し訳ないです」「ううん、いいのよ」「はい、ありがとうございます」春花は申し訳なく眉を下げた。捻挫した左手首はもうすっかり治っている。痛むこともなければ何かに不自由することもない。元通りの状態だというのに、ピアノを弾くときだけほのかに違和感を感じていた。「はぁー」無意識に出るため息は、春花の心をモヤモヤさせる。日々の生活に不満はないのに、なぜこんなにもやるせない気持ちになるのか。「静、頑張ってるなぁ」遠く離れた恋人を想いながら、春花はレッスン室に入っていった。

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 09

    「私は十分幸せだよ。それより私のせいで静がピアノを弾けない方が嫌だよ」「ピアノなら国内でも弾けるよ。それに俺が海外公演に行ったら春花を守ることができなくなる」「大丈夫だよ。高志は逮捕されたし、私だってそんなに弱くないのよ」「……俺に海外に行けって言ってるの?」まるで運命のように再会してこうして恋人にもなれた。静にはたくさん助けてもらった。今度は春花が静を応援したい。好きなピアノを好きなだけ弾いていてほしい。「私は夢を追いかけている静が好きだよ。私のせいで静が小さな世界にいるのは嫌なの。だから遠慮なく行ってきて。これはチャンスなんでしょう?」春花の口からペラペラと出てくる言葉は嘘偽りない。静にはもっと自由に羽ばたいてほしいと願っているからだ。そして春花自身も、前に進みたいと思っている。静や葉月に守ってもらってばかりではなく、自分の力で未来に向かって進んでいきたい。そう心から思えるようになったのは、やはり静のおかげなのだ。「ねえ、春花の夢はなに?」「うーん、たくさんの人にピアノの魅力を伝えること、かな。静の夢は?」「……ピアノで世界中の人を魅了すること」「だよね。行きたいんでしょう? 行ってきなよ。やらずに後悔しないで。私も静が世界に羽ばたく姿、見たいな」「春花、一緒に……」「一緒にはいかないよ。だって私にはたくさんの生徒さんがいるんだから」ニッコリ笑う春花が眩しくて、静の方が胸が苦しくなる。思わず彼女を引き寄せてかたく抱きしめた。夢と現実は相反する。 手の届く温もりを手放すのは勇気がいるし、それと同様に、抱いてきた夢を諦めるのも勇気がいる。どちらが正しいかなんて誰もわからない。お互いの見据える先は果たして同じ方向を向いているのだろうか。二人が決めた道は未知の世界だった。

  • 君と奏でるトロイメライ~今度こそ君を離さない~   罪悪感 08

    ◇ 「春花、どうした?」リハビリがてら家でピアノを弾いていた春花だったが、曲の途中で手が止まり、すぐそばで聴いていた静が声をかける。「ううん。何でもないよ」フルフルと首を横に振るが、捻った左手首が思うように動かせず先ほどから納得のいかない演奏に気持ちが沈んでくる。「少しずつだよ、春花」察して静は春花の左手首を優しく撫でる。その心遣いが優しすぎて春花は胸が苦しくなった。いつだって静は春花を優先する。ピアノのリハビリもずっと付き合ってくれている。静だって次の公演に向けて練習をしなくてはいけないはずなのに、「俺はいいから」と身を引くのだ。そんな優しさが、かつての自分を見ているようで苦しい。そんなに気を遣わなくていいのに。 もっとわがままになってくれていいのに。「ねえ静、海外公演を断ったって本当?」「春花、その話どこから……?」「やっぱりそうなの?」「いいんだよ、それは。別にピアノなんてどこにいても弾けるだろう?」「でも夢なんでしょう? 世界中の人を魅了するのが静の夢」核心を突くような言葉に静は息を飲んだ。だがすぐに首を小さく横に振る。「俺の今の夢は春花を幸せにすることだよ」優しさが一層春花の胸を締めつける。それはそれとして静の本心なのだろうと思う。だがその言葉の裏にはやはり自分の感情を押し込めていると思わざるを得ない。静は誰よりも努力家で誰よりもピアノが好きで、もっと世界に羽ばたきたいと願っている。ずっと近くで見てきた春花だからこそ、わかるのだ。

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status